スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

飾りなく、そのままの魅力。

徳島に行ったとき、ついでに四国一周したことがあった。
祖母と二人で、電車やバスを乗り継いで。
どこも、観光客が少なく、何だか遠くに来たんだなぁという気にさせられた。
観光客というのは、その名所を飾る、背景となる。
それがまばらということは、その、名所自体の魅力がよく分かる、
そんな気がした。
余計なものに、空気を動かされることなく、
その場が持つ雰囲気が、停留している。
どこかから、切り離された、ある場所。

誇大に見えることもなく、相応の、
しかし、だからこそ現実的な風景。

テーマパークは、嫌い。。。。
スポンサーサイト

その④私の中の徳島の思い出。

子供の頃、夏休み。
最初に祖母の家に行った頃、祖母の家は、徳島の繁華街の中の、
祖母がママをしていたスナックの近くにあった。
飲み屋街の独特のにおいがする、ワンルーム。
夜の前に、祖母が着物の帯を器用に結んでいるのを不思議そうに眺めていた。
祖母はほかの人の着付けもしていた。

古くて汚くて、母が祖母の手伝いをしに、店に行っていた時は、
夜、暗い部屋でゴキブリが出るんじゃないかと恐れながら、
うっすらと入り込むネオンの中で、眠った。
昼間、その部屋にいることはなかった、なぜか。
朝になると、店に行ったのだけれど、
酒場の生ゴミの匂いの中を通り抜けて行くのが怖かった。
暗い店内。ミックスジュースとゆで卵。

早い夜に行くこともあった。
田舎のスナックというかんじで、のんびりしていたけれど、
時折見た、酔っ払いや、きらびやかなお姉さん達が、
やはり、異質で、不思議だった。夜風は生暖かかった。

夏だったから、阿波踊りも見に行った。
踊りの笠が大好きで、行く度に買ってもらっていた。

中心街の象徴は、アーケードのある商店街。
子供だったからか、天井が高く感じられた。
祖母がよく、おもちゃ屋さんに連れて行ってくれて、名前は「ニコニコ堂」(笑)。
何でも買ってくれた。
妙なテーマソングがかかっていた。

阿波踊りは、アーケードの中に、その音を響かせていて、
それが通り過ぎた後、夜の暑い町に出て、しばらく見物した後、帰った。
(大通りには、ひょろ長い椰子の木みたいなのがあった。
近くに小さなロープウェイもあった。)
暑くて、風がなかった。

祖母は、次に、小料理屋を始めて、
中心街から少し離れたところに、マンションを建てた。眉山の近く。
ワンフロアに四世帯で、確か、四階建て。
風呂なし(そのおかげで、後々、借り手が減っていく。)で、
外にシャワー室があった。
祖母の家が管理人室。一階の片側をぶち抜いていた。
そこにはお風呂があったけれど、
ものめずらしさから、外の狭いシャワールームにも行った。
すのこと、コンクリと、アルミサッシの匂いがした。

最寄の駅は、ある時から無人駅。ディーゼル線。
駅前にはスーパーや、
キティちゃんをショーウインドウに並べた綺麗な大皿を使っている洋食屋があった。

祖母は大抵、タクシーを呼んで、出かけていた。
駅から祖母の家までは、あまり人にも出会わない、無機質な通りで、
近所に、町営かなんかの、運動場があった。
野球場のライトが夜も輝いていた。
大きな屋外プールもあって、祖母の家から水着を着て、走って行った。
殆ど、貸切状態。

空気の流れが静かで、灰色の、プールサイドと、水色のそれに漂う雲。
プールを囲う階段状のベンチ。飛び込み台。

近所の通りを歩いていると、よく、トンボを見かけた。
道路にじっとしていたり、二匹で絡み合いながら、飛んでいた。
祖母のマンションの裏にはよく、綺麗な緑色のアマガエルがいた。

静かな夏を、時折、台風が通過して、
その時ばかりは、激しい風雨が、マンションの通路を打ち付けるように吹き込んできた。

冬に行ったときもある。
寒くて、殆ど外では遊ばなかった。ハウスみかんをよく食べていた。
スキーに行こうとしたときもあったけれど、
途中、路肩に仏壇の広告ばかりあった(苦笑)。
ひどい道で、車で登っていったものの、スキーをせずに帰ったのは、
何でだったのか、分らない。

近所の子供達には滅多に会わず、
道を通る子供が、ヘルメットを被って通学していたのが珍しかった。
家にいるときの祖母は、もともと、デザイナーだったのもあって、
洋裁ばかりしていた。
それもあって、あまり出かけなかった。
店と、デパートや、生地屋以外は。

せっかく来たのだからと、観光地らしき場所にも、たまに連れて行かれた。
亀の産卵場や、淡路島(砂が熱くて熱くて、海水浴どころじゃなかった。)、
学駅(そこの入場切符は、入学祈願のお守り。
ちなみに、ぶどう狩りに行ったのだけれど、ぶどうは苦かった。)、
山奥のキャンプ場(川遊びをした。そこも、他に人がいなくて、寂しかった。
ほんとに、河童が出るんじゃないかと思った。
大きな蚊とか、蛾が、建物の壁や、網戸に止まっていた。)。
藍染や、人形浄瑠璃みたいなのも、行くとか行かないとか言いつつ、行かなかった。

ぶどう饅頭というお菓子があった。
薄紫の、一口大の白餡の玉を、串にいくつか刺したもの。
ニセモノの、確か、百万円札が、箱の中に一枚入っていた。
キンチョウ饅頭という、チョコ味の皮で白餡を包んだものや、
「さおしか」という、和三盆を使った、
薄い羊羹をそぼろ状の餅粉入りのようなカステラっぽい生地で巻いたお菓子を食べた。
有名な和菓子屋の「京観世」とか言うお菓子とそっくり。

東京に帰るときは、必ず、すだちの箱と、わかめを貰った。

春に行った時、巻き寿司などを持って、裏の眉山に登った。夜桜を見に。
やはり、あまり人がいなくて、木に吊るされた提灯が寂しかった。
夜風が肌寒かった。
頂上には、妙なダコタ?や、展望台があった。

二十歳前に行った頃、徳島そごうの中の、
青柳という会席料理屋に連れて行ってもらった。
そこの料理は、私にとっては最初で最後と思うくらい、
おいしい懐石料理だった。
その近くに、大判焼きの店があって、安くて、本当に大きかった。
ただでお茶も飲めた。
うちの母が子供の頃一時期、徳島に住んでいたことがあるのだけれど、当時からあったらしい。

もう何年も徳島には行っていない。
私の徳島の思い出のうち、幾つの思い出が、
今もそこにあるのだろうか。
それとももう、まったく違う徳島に変わってしまったのだろうか。

その③大阪の祖母の家がらみの思い出。

大阪の祖母の家にいたときは、あちこち出かけることも少なかった。
近所に住む、兄一家のところへ行ったり、箕面の山に行ってみたり。
叔父の家に従姉妹がいたが、年齢を重ねるごとに、遊ぶことはなくなっていった。
たまに来る東京の従姉妹と遊んでいる暇はなかったのだろう。

箕面の山は、母が猿嫌いなのに、何度も行った。
電車に乗って、すぐ行かれるということが良かったのだろう。
母は、毎回のように、猿の餌を、慌てて放ってしまうのだった。
猿に袋をひったくられたりもしていた。
昆虫館みたいな建物があったような気がする。
その時食べたりんご飴に、詰めていた銀歯がくっついて外れてしまった。
見てみると、奥歯にはまっていた銀歯は磨り減って、ところどころ破れていた。

叔父と従姉妹と一緒に宝塚に行ったこと。
祖母や母、母の姉とその子供達と一緒に、高野山へ行ったこともあった。
どちらも、一度だけであったが、他のどの記憶にも似ていない為、
しっかり、心に残っている。

とにかく、影の少ない道路。
空き地にあった捨てられた冷蔵庫。

「閉じ込められたら、最後だよ」
そう言っていたのは、誰だろう?

大阪の祖母の家から、徳島へたつときのことは、あまり憶えていない。

憶えているのは、交通手段だけで、大抵、父が、車でやってきて、
徳島まで一緒に行くことが多かった。

カーフェリーに乗った瞬間、意識が行くのは、
ボイラーの振動音と、生暖かい風。
気がつくと、港を出ている。。。

しばしの間、突然現れた、深い海を眺める。
風が強い。デッキはとにかく、轟々騒がしい。
中は中で、退屈極まりないのだが、座る気になれない。
あちこちうろうろしていた。
足元がしっかりしているとはいい難いところを、
歩いてみるのは楽しいもんだ。
海も眺めてみるが、ずっと同じような風景なので、
何を思って見ればいいんだ?と思った。
子供のくせに。。。

その②大阪の祖母の家。寝付けない夜の記憶

夏休みか、冬休み、
親に連れられて田舎に帰っていたわけだが、
季節によって、思い出も二つに分かれている。

交通手段は、大阪だけなら新幹線。又は車。
徳島へは、ある時は、カーフェリー、飛行機、
高速バス!車、ナドナド、いろいろなものを使った。

大阪か、徳島か、どちらの先に行くのか?
・・・大抵、わがままな徳島の祖母のところに
後で行くようになっていたように思う。
「その場所」から、東京へ帰らせる権利の取り合い?

父の仕事の都合で、母と自分と弟の三人で、
新幹線で大阪へ行くことが多かった。
阪急電車に乗り換えて、祖母のうちの近くの駅に
降りた頃は、ヘトヘトだった。
夏は、蝉の声が凄まじく、とにかく、暑く、
どこを歩いたか、記憶になく、
気付いたら、祖母の住むマンションの玄関だった。
ポストを母がチェックし、エレベーターで昇り、
ドアを開けた途端に、祖母の家の匂いがした。
一人暮らしの、清潔な匂いだった。

祖母の家の記憶は、なぜか、いつも、
早く寝させられたこと。
母と祖母が話しているのは、あまり聞かなかった。
子供達が寝てから、話していたのだろう。
眠くないのに、寝るように言われて、困った。
いつも、そこでは、すぐに眠れなかった。

結局、母たちが寝る頃にも、まだ眠れず、
コの字型のマンションの通路を、ベランダのある窓から
眺めていた。
規則正しく並んだ、蛍光灯の光。
とても静か。
静か過ぎるほどだった。

時折、人の影を見つけると、何だか怖くなった。
布団が敷いてあった部屋の壁側に、小さな棚があって、
国内のあちこちの民芸品が置いてあった。
私が特に気に入っていたのは、小さな民家の置物で、
水車がついていた。鉄道のオモチャのセットみたいな作りで、
思わず触ってみたかったが、手を伸ばすのは憚られた。

怒られる。。。そう思って、疑わなかったから。
とにかく、余計なことはせず、いい子にしていること。。。

何とか、眠って、また、目が覚めた頃には、祖母が起きていた。
祖母は早朝に入浴したり、洗面所の掃除をしていた。
それから、再びベッドに横になり、眼鏡をかけて、
新聞を読んでいた。
窓際には、よく、花の鉢があった。
待っているのにも飽きて、時々、祖母のところに行った。
遊んでもらった記憶はないが、
時折、花のことを話してくれた。

祖母が元気の良い時は、時折近所に、朝の散歩に出かけた。
早起きしていたのは、いつも、祖母と、私だった。
すでに、その日の暑さを予告するような、湿った朝の空気。
外は驚くほど、人気もなく、道路の端でも真ん中でも、
好きなように歩けた。
祖母と、口数少なく、目的地の神社?まで行って、
再び引き返していた。
戻る頃には、蝉の声が耳にうるさく、母たちも起きていた。

田舎の思い出・・・その①そろそろ、謎解きしてみたい。

紅葉の季節となると、どういうわけだか、
こちら(東京)では、「京都に行きたいね」
というムードになる。
子供の頃、私にとっては、京都も奈良も、しょっちゅう連れて行かれる、
有り難味のないところだった。

両親が、社会人として上京してきた為に、
自分は、東京生まれの東京育ちとなったわけであるが、
もともと、親は、関西の人。
大阪を中心に、時の理由によって、徳島なり、愛媛なり、
引っ越していたようだ。
細かいことは分からない。
話し好きの父の話、もっと聞いておけばよかったな、と
思っても、今はもういない。

母は、多くを語らない。
どういうわけだか、辛抱強いのか、
彼女なりのシールドなのか、分からないけれど、
言ってくれない人だ。

そんなことだから、二人の周りの状況が、イマイチ重ならない。
でも、そろそろ、話してくれてもいいのにな。。。と思う。
楽になって欲しいからだ。母に。
それに、自分についても何か知ること出来るんじゃないか?、
初めて目が開くような何かを見つけられるんじゃないか?
そんな気もするのは、歳をとるにつれて、
遺伝だなぁと感じる時があるからだ。

子供の頃、長期休みは大抵、田舎で過ごした。
大阪で育ったはずの父の実家が、徳島にあり、
愛媛で生まれた母の実家が大阪にあったのは、
なぜなのか、よく分からない。

父の父は、大阪に住んでいた。
母方の親戚は、母と母の姉以外は、皆、大阪。
母の父には、会った覚えがない。
葬式さえ、連れて行ってもらえなかった。
母自身も行かなかったので、何か、訳があったのだろう。
両親の親は離婚していたので、
素直に聞けることはなかった。

とりあえず、いい子にしていることだ。
大人の言う通りに。。。
プロフィール
  • Author:しゅま子
  • 33歳から、3人の子供のひとり親となり、40歳越え、現在43歳。40で、いろいろ考えるし、身体も変わると聞いていましたが、ほんとに変わってびっくり。成人の2回目のよう!
    と驚きつつ進みだした40代。文字通り、中年!40代だからこその迷い、多々あり・・・
最近の記事
フリーエリア
月別アーカイブ
カテゴリー
ブロとも申請フォーム
最新コメント

Powered by FC2 Blog | | Template Design by スタンダード・デザインラボ

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。